コ・イ・ヌール ダイヤモンド

男性を破滅させる石

The KOH-I-NUR

原石では800カラットはあったのではないかと言われているこの石のお話は、1304年から始まります。

当時はもう186カラットになっていた思われているのですが、インドのキルジ朝アラー・ウッディーンがマルワを征服したときの戦利品のひとつでした。その後、200年に渡りこの周辺を治める皇帝に受け継がれたそうです。

1526年にムガール帝国の初代皇帝バーブルがデリーを征服、このダイヤモンドを手に入れます。このダイヤモンドはバーブルに気に入られ、「バーブルのダイヤモンド」と呼ばれます。

バーブルの死後、彼の息子フマユンが後を継いだのですが、亡命する破目に陥り、「バーブルのダイヤモンド」を持ってサファヴィー朝(現在のイラン)にたどり着きます。サファヴィー朝の皇帝タマスプ1世はフマユンをもてなし、フマユンは出国する際に、「バーブルのダイヤモンド」をタマスプ1世に贈りました。

タマスプ1世はインドの小さな国の皇帝にこのダイヤモンドを贈ろうとしますが、この時の使者が「バーブルのダイヤモンド」を持ち逃げしてしまいました。

時を経て、ムガール帝国隣国のゴルコンダの重臣であるミル・ジュムラがムガール帝国5代皇帝のシャー・ジャハンに献上しました。その後、シャー・ジャハンは息子のアウラングゼーブに幽閉され、ムガール帝国は衰退していきます。

1739年、ムガール帝国の首都デリーは、ナディル・シャー率いるアフシャール朝(現在のイラン・アフガン)に攻め込まれ、この時のムガール皇帝モハメッド・シャーは皇帝の称号を保証してもらう代わりに多くの財宝を差し出しました。 しかし、この中に「バブールのダイヤモンド」がなかったのです。

モハメッド・シャーの愛人からモハメッドのターバンの中にこのダイヤモンドがあるという情報を手に入れたナディルは宴会中にモハメッドに友情の証としてターバンを取り替えることを提案します。イスラムの習慣ではターバンの交換はごくごく普通のことで、モハメッドは断ることもできずに、ターバンを交換しました。

ナディルは部屋に戻ってからターバンの中にある「バーブルのダイヤモンド」を見つけて「コイノール(光の山)!!!!!」と叫んだと言われ、それ以降、「バーブルのダイヤモンド」ではなく「コ・イ・ヌール ダイヤモンド」(The KOH-I-NUR)と呼ばれるようになりました。

1747年に、ナディルが暗殺された後、王朝は分裂し、後を継いだ息子のシャー・ルクは「コ・イ・ヌール」の為に度重なる拷問を受け失明しました。シャー・ルクはアフガンのデュラニ朝皇帝のアフマド・アブダリに助けられ、「コ・イ・ヌール」を進呈しましたが、カージャル朝皇帝の拷問を受けショック死してしまいます。

1793年デュラニ朝のアフマド・アブダリの息子が死亡してから、兄弟による政権争いが始まり、23人の兄弟は、政権と「コ・イ・ヌール」を奪い合います。兄弟のなかでザマーン・シャーとシャー・シュジャじゃインドのパンジャブというところにダイヤモンドを持って逃亡しますが、捕まり、パンジャブ王であるランジッド・シンに釈放と引き換えにダイヤモンドを渡しました。

ランジッド・シンは、「コ・イ・ヌール」を気に入り、指輪に加工して身につけていたと言われています。 ある僧侶がランジッド・シンに寺院に「コ・イ・ヌール」を寄付するように勧めましたが、寄付をしないまま、1839年にランジッド・シンは亡くなっています。

1849年、イギリスが全インドを征服し、「コ・イ・ヌール」は1850年7月3日にイギリスのビクトリア女王に献上されました。

翌年、万国博覧会で、展示された「コ・イ・ヌール」ですが、ブリリアントカットとは違い、光の屈折が少ないカットであったため、「コ・イ・ヌール」を見た人々は失望したといいます。

1852年、186カラットのムガール・スタイル・カットは108.93カラットのブリリアントカットにリカットされました。

1901年にビクトリア女王が82歳で死去してからというもの、「コ・イ・ヌール」は王妃だけが身につけてきました。

現在は、ロンドン塔に王冠として展示されており、王冠自体にも2,800ものダイヤモンドがちりばめられているそうです。

コ・イ・ヌール(外部サイト/英語)

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