ダリャ・イ・ヌール ダイヤモンド
 ヌール・ウル・エイン(ヌーロルエイン)

Diamanta Grande Tableと、
世界最大のピンクダイヤモンド

The DARYA-I-NUR
The NUR-UL-AIN

1642年、旅行家で、宝石商を営んでいたタベルニエが、インドを訪れた際、ムガル帝国第5代皇帝、シャー・ジャハンから、「ディアマンタ・グランデ・テーブル(Diamanta Grande Table)」と呼ばれるダイヤモンドを見せてもらいました。それは、インドのゴルコンダ鉱山で発見されたと言われており、400カラットもある巨大なもので、薄いピンク色をしていました。

シャー・ジャハンは、「ディアマンタ・グランデ・テーブル」のみならず、「コ・イ・ヌール」「ティムール・ルビー」など、実に多く、しかも現在でも有名な素晴らしい宝石を所有しているコレクターでもありました。

時は流れ、1739年、ムガル帝国は、ナディル・シャー率いるアフシャール朝(現在のイラン・アフガン)に攻め込まれました。ムガル帝国第12代皇帝ムハンマド・シャーは、シャー・ジャハンの頃より受け継いできた多くの財宝をナディル・シャーに渡さねばなりませんでした。「コ・イ・ヌール」など多くの財宝は、戦利品としてナディル・シャーと共に、デリーを後にしました。奪われたの戦利品は、総額で7億ルピーとも言われています。

「ディアマンタ・グランデ・テーブル」も、ナディル・シャーの戦利品のひとつでした。そして、このころには、「ディアマンタ・グランデ・テーブル」は、「ダリャ・イ・ヌール(The DARYA-I-NUR)(光の海)」と「ヌール・ウル・エイン(ヌーロルエイン)(The NUR-UL-AIN)」の二つの石にわけられていたと考えられています。1965年に、カナダの研究グループが発表したものです。(…が、それが、ナディル・シャーに渡ってからのことなのか、そうではないのかは、私には判りませんでした。)

さて、1747年、ナディル・シャーが暗殺された後、王朝は分裂しました。後を継いでいたシャー・ルクは、カージャール朝初代皇帝アーカー・ムハンマド・ハーンから拷問を受け、ナディル・シャーの時代から引き継いできた多くの宝石を渡さねばなりませんでした。拷問を受け、宝石を渡し、その宝石に納得ができなければ、更なる拷問を受け、そして、宝石を渡し…。もちろん、「ダリャ・イ・ヌール」と「ヌール・ウル・エイン(ヌーロルエイン)」も。

シャー・ルクを拷問し、アフチャール朝を滅ぼしたアーカー・ムハマド・ハーンですが、1797年に暗殺されてしまいます。その後を継いだのが、彼の甥であるファトフ・アリー・シャーでした。ファトフ・アリー・シャーは、宝石コレクターでした。彼は、「ダリャ・イ・ヌール」に名前を刻ませています。

ガージャール朝第4代皇帝ナーセロッディーン・シャーに引き継がれた「ダリャ・イ・ヌール」は、1848年、腕輪に取り付けられました。その後、ブローチとしてつけられるようになっていきました。これが、現在の形です。

一方の「ヌール・ウル・エイン(ヌーロルエイン)」は、1958年にハリー・ウィンストンの手によってティアラに生まれ変わりました。

「ダリャ・イ・ヌール」は、182カラットとも、186カラットとも言われており、世界で一番大きなピンクダイヤモンドです。その色は、薄く、「青ざめた」ピンク色に見えます。(カラットに誤差があるのは、ルースの状態で量ったことがないからだと聞いたことがありますが…。)

「ヌール・ウル・エイン(ヌーロルエイン)」は、60カラットと言われ、世界で二番目に大きなピンクダイヤモンドです。

世界で一番大きなのピンクダイヤモンドと、世界で二番目に大きなピンクダイヤモンド。その差はおよそ120カラットもあります。100カラットを超えるピンクダイヤモンドは、もう存在しないのではないか?とも言われています。つまり、「ダリャ・イ・ヌール」は、奇跡のピンクダイヤモンドなのです。

もし、「ダリャ・イ・ヌール」と「ヌール・ウル・エイン(ヌーロルエイン)」がこの世に存在せず、「ディアマンテ・グランデ・テーブル」のままであったら…。その凄さ、素晴らしさは、想像を絶する…どころではなかったのかもしれません。

ダリャ・イ・ヌール(外部サイト/英語)

>ヌール・ウル・エイン(外部サイト/英語)

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