パール・オブ・アジア

清王朝の末期を見届けた真珠

Pearl of Asia

114グラムもある大きなこの真珠は、ムガール帝国で、秘宝として皇帝に受け継がれてきました。

ムガール帝国と言えば、ここも紹介しているように、「コ・イ・ヌール」「ティムール・ルビー」など、超有名な石たちを持っていた、インドの大国です。

この真珠は、ムガール帝国を侵略したアフシャール朝に奪われ、中国との友好の証として献上されました。後に大清帝国第9代皇帝后の西太后が引き継ぎました。真珠は、パール オブ アジアと呼ばれました。

中国史上、女性として最も長期に渡って権力者として君臨し、最強の女性と謳われた西太后。彼女の権力に対する欲望は凄まじいものであったといいます。映画や本などで、知られる西太后の残虐さ。非情さ。西太后の夫である皇帝 咸豊帝も、「この女は満足するということを知らない」と言ったという逸話があります。

西太后は、夫である咸豊帝の死後、自らの子(同治帝)を第10代皇帝に即位させました。同治帝は、先代 咸豊帝長男でしたが、その咸豊帝の第一妃は、東太后でした。しかし、同治帝の母である西太后は、同治帝の摂政を務めたのです。

同治帝は子ができる前に亡くなり、後継者問題が起きると、自らの権威失墜を恐れた、西太后は、自分の妹の夫の子(光緒帝)を第11代皇帝としました。光緒帝が成長したとき、西太后が引退を考えるのですが、混乱を恐れた重臣たちにより、光緒帝は、数年間西太后のフォローを受ける事を条件に自ら政治を行っていくこととなります。また、この頃、第9代皇帝の東太后は亡くなり、このことにより西太后は実質、清王朝で何者にも揺ぐことのない地位を手に入れたのです。

一方で、光緒帝は日清戦争敗北後、立憲君主制を目指して改革を行っていました。そしてそれは、西太后の権力が失墜しかねないものでした。そこで、西太后は、クーデターを起こし、時同じくして進められていた「西太后暗殺計画」の密告により、光緒帝を逮捕し、自らの手にその権力を取り戻しました。(戊戌の政変)

光緒帝が亡くなった翌日に、西太后はラストエンペラー・宣統帝(溥儀)を第11代皇帝としました。それから間もなく西太后は亡くなったといいます。

もし、光緒帝よりも先に西太后が亡くなっていた場合は、光緒帝が復権することになっていたようですが、それを恐れた西太后は、自分の死期を悟り…とも言われています。

さて、西太后が引き継いだパール・オブ・アジアは、たいへんに大きなこのその真珠に翡翠、トルマリン、オパールなどをセッティングし、西太后はいつも身につけていたということです。

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