カール大帝の護符

皇帝へと導く石

Charlemagne's tallsman

カール大帝(シャルルマーニュ大帝)の護符」。その護符の中央には、「皇帝の石」と呼ばれるサファイアが埋め込まれています。「皇帝の石」はカボションカットされた二つのサファイアが背中合わせにはめ込まれており、その間には、キリストが貼り付けにされた十字架の木片と、聖母マリアの髪が挟まれているとも言われています。

この「カール大帝の護符」は、当時中東を支配していたアッパーズ朝から、フランク王国の国王であるカール大帝への贈られたものでした。カール大帝は、この宝石を護符としていつも身に着けていました。そして、彼の死後(814年)、彼が建設したアーヘン大聖堂(現:ドイツ西部/世界遺産登録)に遺体と共に埋葬されました。その後、1000年に「カール大帝の護符」のみが、カール大帝の聖遺物のひとつとして宝物庫へと保管場所を移されました。

世紀を経て、1796年、フランスでは、ナポレオンが、婚約者との婚約を破棄し、ジョセフィーヌ・ド・ボアルネと結婚をしました。ジョセフィーヌは、貴族の娘として生まれ、一度結婚をし、一男一女に恵まれますが、その後離婚。離婚してまもなく元夫は、処刑されてしまいました。ジョセフィーヌは大変浪費家であったともいされています。彼女は、離婚後、政治家であり軍人でもある「悪徳の士」と呼ばれた男の愛人となっていました。ちょうどその頃ナポレオンと出会い、彼の求婚を受け入れたのでした。

ジョセフィーヌは、年下のナポレオンをつまらない男と思っていました。ジョセフィーヌは、ナポレオンとの結婚後も浮気を繰り返し、愛人をつくりました。ナポレオンは、ジョセフィーヌの浮気癖に悩み、離婚も考えたそうですが、その時はその考えを思いとどまっています。

時は過ぎ、ナポレオンがフランス皇帝となり、皇后となったジョセフィーヌがアーヘン大聖堂を訪れたとき、アーヘン大聖堂の関係者たちは、「カール大帝の護符」を皇后に見ていただこうと考えました。フランスの皇帝となったばかりのナポレオンとその妻に敬意を表そうとしたのです。

このことは、アーヘン大聖堂の関係者たちの大きなミスとでした。当時、ドイツはフランスの手に落ちていました。そして、ドイツはカール大帝の聖遺物をひとつナポレオンに献上することを約束していました。(ナポレオンがカール大帝を敬愛していたとの説もあります。)ジョセフィーヌは、この「カール大帝の護符」をナポレオンに献上させようとし、結果として、「カール大帝の護符」はナポレオンに献上されました。

さて、「カール大帝の護符」を手にしたナポレオンでしたが、この石は、愛妻ジョセフィーヌに贈られました。この「カール大帝の護符」はジョセフィーヌにとって、初めてのナポレオンからのプレゼントであったとも言われています。ちょうど、「カール大帝の護符」を手に入れた頃からジョセフィーヌの、浮気癖は止み、皇帝の守護天使と呼ばれるほどナポレオンに尽くし、そのせいもあってか、ナポレオンは、スウェーデンとイギリスを除くすべてのヨーロッパ全土を制圧していきます。

しかし、折角ジョセフィーヌの浮気癖が治ったというのに、肝心のナポレオンに浮気癖がついてきたと言われています。結局、ナポレオンは、嫡子が生まれないことを理由にジョセフィーヌと離婚し、新たな妻(マリー・ルィーズ)を迎えました。

「カール大帝の護符」は、そのままジョセフィーヌの手元に残りました。

「カール大帝の護符」が、ナポレオンの元から去ったときから、ナポレオンのツキは落ち始めました。そして、ナポレオンは失脚していきます。ナポレオンは、「カール大帝の護符」の中央にある石が「皇帝の石」と呼ばれていたことをしらなかったのかもしれません。もし、ナポレオンがジョセフィーヌと離婚せずにいたら、「皇帝の石」が指し示すように、もしかしたら、反逆者としてではなく、皇帝として死んでいくことができたのかもしれません。

さて、「カール大帝の護符」は、その後、ジョセフィーヌの娘へ、そして、その息子(ナポレオン3世)へと受け継がれていきました。そして、ナポレオン3世から、その妻のユジニーへ送られました。

ユジニーは、第一次世界大戦で砲撃されたランス・ノートルダム大聖堂(フランス/世界遺産登録)の修復を援助しようと、「カール大帝の護符」をランス市へ寄贈しました。

ところで、この「皇帝の石」は、古代ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌが持っていたことがあるという話もあるようですが、詳しくはわかりませんでした。コンスタンティヌは、四分割統治されていたローマを統一し、全ローマ帝国で唯一の皇帝となった人物です。

inserted by FC2 system