琥珀の間(アンバールーム)

張り巡らされた琥珀

Amber room

琥珀の間(Amber room)それは、ロシアのサンクト・ベテルブルグ(旧レニングラード)から30キロメートルほど離れたプーシキン市というところにあるエカテリーナ宮殿の中に実在している部屋です。

エカテリーナ宮殿は、ピョードル大帝が自身の2番目の妻であり、ロシア初の女帝となったエカテリーナ1世のために買い取り、贈られたもので、元はと言えば,豪農の持ち物でした。

その後、イタリアの建築家に依頼をし、現在のようなロシアバロック様式の建物となります。端から端までが325メートルもあるこの宮殿の外観は、青い外壁と白い円柱。そして金が張り巡らされています。張り巡らされた金は、内装・外装併せて10キログラム以上になるとされています。

当時、エカテリーナ宮殿は、夏の宮殿とも言われ、夏場の別荘として使用されていました。(勿論、対比するように冬の宮殿と呼ばれる宮殿もあります。現エルミタージュ美術館がそれにあたりますが、現存するものは1837年にあった火災焼失後に、一部の内部以外は元のままに立て直されたものとの事です。ちなみに、エルミタージュとは、フランス語で隠れ家を意味し、エカテリーナ2世の個人的な美術館としても機能していたと言われています。)

さて、本題の琥珀の間は、そもそも1716年にプロセイン王(フリードリッヒ・ヴァルヘルム1世)により、ピョードル大帝に友好の証として贈られたものです。

琥珀の間は、壁に金箔を施し、その上から6トンとも、約10万個とも言われる琥珀を歳月をかけて、モザイクのように天井や壁に埋め込み、さらには一流の職人達によって彫刻が施され、また、扉は金と琥珀によって縁取られ、そしてシャンデリアもまた、琥珀によって飾られたものでした。

エカテリーナ宮殿は、エカテリーナ1世の死後、遺言により、娘のエリザベータ(エカテリーナ2世)に引き継がれました。エカテリーナ2世は、1770年に琥珀の間を完成させ、その部屋を大変好み、自らの許可が無いものへの琥珀の間への出入りを禁じていました。

年は流れ、第二次世界大戦中の1941年。レニングラード(現サンクト・ペテルブグル)へのナチスの進攻によって、エカテリーナ宮殿は、破壊や略奪にあいます。その後、ソ連の巻き返しによってナチスは、撤退を余儀なくされますが、その撤退中に琥珀の間の琥珀はナチスに持ち去られてしまったのです。

ナチスの1人の将校とその6人の部下が36時間という僅かな時間で琥珀を持ち去ったとされています。

持ち去られた琥珀は、ケーニヒスベルグ(当時はドイツの飛地領。現ロシア カリーニングラード。リトアニアの独立に伴い、ロシアの飛地領となっている)にあり、当時博物館として機能していたケーニヒスベルグ城に運ばれて、1944年の春ごろまで展示されていました。

しかし、その年ケーニヒスベルグは、ロシアの攻撃を受け、ケーニヒスベルグ城は、半壊。1995年にはケーニヒスベルグが陥落しましたが、その混乱により、琥珀の間の琥珀の行方がわからなくなってしまいました。

1979年に、ソ連(当時)は、この琥珀の間を国家プロジェクトとして、復元させることを決定し、復元・修復が始められました。そして、サンクト・ペテルブルグ建都300年にあわせて、2003年に琥珀の間のお披露目が行われました。

現在、エカテリーナ宮殿は、我々でも見学を行う事が可能で、勿論琥珀の間を自らの目で見、そして感じることができます。

また、1990年には「サンクト・ベテルブルグ歴史地区と関連建造物群」として、世界文化遺産に登録されています。

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